ミュンヘン公演
『ぼくはピクニック』『15分』『川から首をだしてこっちを見ている2』  新聞評

仮象から存在へ

ばらばらのものをいかにまとめたらよいのか? 言葉を失わせるようなものをいかに説明すればよいのか? 日本の劇団、時々自動のムッファターレでの公演を見終わって、まずは感銘、音、映像が頭にこびりついている。三つのストーリーの残存物、とはいえ、ストーリー性は本当のところ必然性が少ないように思われる。『M→m』は断片である。これらの断片がそれぞれ独立する三つの作品を形作る。「ぼくはピクニック」「15分」「川から首をだしてこっちを見ている 2」の三作品は、どれもが独自のテンポとリズムを有していながら、ひとつのものとなっていくのだ。『M→m』の全体をつなぐものは、タイトルに使われる文字“M”であり、人間存在を示すキーワード、マンカインド、メモリー、メンタリティ、マシン、マジックを意味する。『M→m』はマクロな視点からミクロコスモスへの旅である。わかりにくいところもなきにもあらずだが、ともかく魅了される。演出家・朝比奈尚行が、ダンス、音楽、演劇、身振り、表情、ビデオ、映画、歌、造形美術をひとつに形作る、その軽やかさには驚かされるばかりである。太鼓が映写面と化し、衣裳は楽器に、楽器はオブジェに、オブジェは俳優にと化す。言葉、映像、音は完璧にひとつのものとなり、溶けあって、ある新種の演劇言語となる。この演劇言語は三作品目「川から首をだしてこっちを見ている 2」では冗漫でだらけさせる長さに傾きがちである。「15分」ではこの冗漫さは精密さと正確さに取り替わっている。この作品において朝比奈尚行が作るまったく新しい型のミュージックシアターが見事に機能している。俳優にとってもいかなる挑戦であろうか。マルチタレントに変異するや、歌いながら、演技しながら、そして楽器を演奏しながら、舞台上を前向きに、後ろ向きに走り回るのである。ただひとつの手の動作も、ただひとつの叫び声も、演出のためには動かすことのできぬ構成要素となっている。日本の劇団、時々自動の創始者であり、演出家、俳優でもある朝比奈尚行がここで見せたものは日本製「複合メディア演劇(ポリ・メディア・シアター)」である。その国では技術というものがわが国と比べるとずいぶん思いきって、かつ当たり前のこととして劇空間に採り入れられている。しかも、マルチメディア冗漫ドタバタ素人劇で終わることもなく。

日刊紙 ジュートドイッチェ・ツァイトゥング 95年10月16日号  カリン・シュタインバーガー

キャベツと打楽 夢のシンフォニー

新しく、刺激的で、並外れた演劇。“SPIEL.ART"演劇祭の閉幕を迎える週末に、これらすべてを満たす出来事が起こった。日本のミュージックシアター・グループ、時々自動である(於・ムッファターレ)。一見高等数学のようなタイトル『M→m』から殻を脱いで現れたものは、視覚と聴覚のための精神豊かで詩的な劇であった。この演劇祭のクライマックスである。 演出家・朝比奈尚行はありきたりな音楽的芝居のイメージをぶち壊す。『M→m』において彼はそれぞれが別物である三作品を結合させた。この演劇祭が初演である「川から首をだしてこっちを見ている 2」では、キャベツ二百個が舞台装置を決定し、咀嚼音のシンフォニーで終わりを迎える。テーブルを取り囲む五人の女性は、千切りキャベツをストア学派風冷静さでもぐもぐ食べていく。巨大なサラダボウルが空っぽになるまでそれは続く。マイクを通じて伝えられる食の瞑想、人はおもしろがり、かつ驚きながら、これに耳をそばだて、注視する。 時々自動は、映像と音を、新鮮で驚愕させるジンテーゼ(総合)へと次々と止揚させていく。長い脚に載った七台の太鼓は、短い作品「15分」において楽器と映写面の役割を果たす。「ぼくはピクニック」では、赤色に光る手が暗闇のなかで敏捷に舞う。人物大のうさぎのぬいぐるみはアイロンの下敷きとなり、吹奏楽団は格外のアンチ行進曲を奏で、床からは描かれた原爆きのこ雲が生えてくる。そこから出現するものは、視聴覚への刺激だけにはとどまらず、テクノロジーに支配された自動世界のリズムにのった、その存在の詩的な寓話にまで及んでいる。 ミニマル風の音、民謡調歌謡、さらにはキンキンした金きり声まで取り入れた音楽と、イメージの多種多様ぶりには魅了される。そして、録音された音、ライブ演奏、身振り、表情、ダンス、ビデオ映像を用いて感動的な夢のシーンをコーディネイトするこの劇団の精密さには、息もつかせぬものがある。

日刊紙 アーベント・ツァイトゥング 95年10月16日号  ローランド・シュピーゲル

奇妙にうなる自動装置

コーラス、走る太鼓隊、行進する吹奏楽団、横切りながら奇妙にうなる自動装置。
ミュンヘン演劇祭"SPIEL.ART"において、演出家の朝比奈尚行を中心とする日本の劇団、時々自動は作品『M→m』(マクロコスモスからミクロコスモスへ)で、これらを舞台上、毒々しい色の流れるビデオイメージの前に据えた(於・ムッファターレ)。しかしながら、この三幕の夕べ(「ぼくはピクニック」「15分」「川から首をだしてこっちを見ている 2」)には、ジャンル・ミックスの成功という以上の何か特別のものがあった。それは、余分なものを削ぎ落とし、型に厳格な日本の美意識とでもいおうか。背景の黒色の壁から、人型にくりぬかれた開口部を通じて演技者が姿を見せる。この穴はときに赤色の平板人型によって塞がれ、そこには出演者の写真が映写されることとなる。色彩と型とオブジェ遊戯の高尚なる簡素さ、そしてそれらの非常なる説得力。これらの遊戯が宗教儀式と芸術の伝統に基づいており、かなり暗号化されているとはいえ、意味が内包されているからである。時々自動は選び抜かれたイメージを用いて、日本における子供の早期社会化、親の野心的な教練をあてこする。玩具小型人間である巨大なうさぎは、コーラスの咆哮に合わせてリズミカルに赤い前脚の肉球を見せ、学童は走りながら背中に背負ったランドセルを叩き合う。二幕目は、規制、規格化。成人世界の制服性。黒服のサラリーマン風生き物が、並べられた太鼓を走りながら叩いていく。この太鼓は同時に交通標識でもある。三幕目はその対抗図。農村の共同体。漂い流れるのは、平穏な時間、その贅沢さ。女性たちは縫い物をし、木琴を奏で、湯浴みをし、キャベツを刻む。ついに食事の時間。五人の女性は白布のかかったテーブルにつき、巨大なサラダボウルいっぱいのキャベツを何にも動じることなく平らげていく。箸が音をたてる。顎でかみ砕く。食べ物が食道を滑り落ちていくのを感じる。観客の反応。それでも女性たちは、食物摂取にだけ集中している。最後に大きな白布がひなびた場面を覆う。全員が歌い、踊り、絵を描き、いろんな楽器を演奏するということも、当然ながら無条件で『M→m』を質の高いものにしている。時々自動がここで提示したものは、ひとつの作品というにとどまらず、グループそれ自体がある種の総合芸術でもある、ということだ。

日刊紙 ミュンヘナー・メルクァ95年10月16日号 マルブ・グラディンガー