M→m』 劇評

テクノロジーのある愛しき日常  

時々自動について話そう。時々自動とは何か。劇団だと言う人もいるが、信じてはいけない。演劇とか音楽とか視覚芸術とかの様々な表現をいっぺんにやってしまう集団だと言えばやや妥当な気もするが、やはりそれも違う。「やや妥当」などという理解の仕方は時々自動にふさわしくない。こんな言い方をするくらいなら、むしろ、時々自動とは独自の文法による独自の言語をもったひとつの表現ジャンルであり、一種の新しい概念だとでも言ったほうがいい。こう言うと、凡人の理解を拒絶する観念的な前衛芸術のようなもを想起してしまうかもしれないが、そうではない。時々自動は、難解であったり退屈であったりするわからなさとは違う、もっと心地の良いわからなさと共にある。
その日わたしは、数人の若い女性が全速力で走りながら演奏している姿を目撃した。彼女たちは楽器をランドセルのように背負い、追いついたり追いつかれたりしながら互いの背中の打楽器を打ち鳴らしていた。なんというチャーミングな光景だったことだろうか。その動きは目を喜ばせ、打楽器から伝わってくる空気の振動は耳を幸福にした。また、同じ日の同じ場所で、モニタの向こうから無表情に語りかけてくる老人と子どもを目撃している。抑揚のないシンプルな日本語がスピーカーを通して耳に届いたが、それはTVなどが発する言葉とは全く違っていた。同じ言葉などこの世に二つと存在しない。同じ意味を持った言葉が、愛しかったり耳障りだったりするのもそのためだ。そこで、わたしたちはつい言葉に思い入れをしすぎてしまう。そうして、独自性や個性を主張しながら、結局は同じような言葉をしゃべっているのだ。ところが、そこで発せられていた言葉は、様々な情念を廃した、質量を持つ単なるモノのような貌をして、脳に侵入してきた。わたしたちはそこで、意味の重みから自由になった。裸の言葉に出会ったような新鮮な感覚を得ることになる。
五感を刺激し、幸福にする光や音の波状攻撃はまだまだ続いた。生のまま目と耳に届くこともあれば、モニタやスピーカーを通して届くこともあったが、そんなことは大した問題ではない。それは言葉や歌、身ぶりといった、身体そのものの技法(テクノロジー)であったり、演奏したり描いたり繕ったりするような道具を介在させる行為であったり、映像や音響を再現するための装置の使用であったりした。もちろん、そこに優劣などはなく、湯気の立つご飯に納豆をかけて食べる行為も、アミーガ2000を駆使してつくられた映像も、同じようにわたしたちを刺激し、かつ愉快にしてくれたのだった。
考えてみれば、わたしたちの日常も、音楽とか映像とか、ローテクとかハイテクとかいうジャンルで仕切られているわけではない。そのすべてとゆるやかな関係を保っているのが普通だ。その意味で、時々自動は演劇界とか音楽界とかいう狭い業界=ジャンルを一気に越えて、わたしたちの日常とまっすぐにつながっている。わたしたちは、不思議に満ちた日常のすべてをもっとラディカルに楽しんでいいのだ。

「WIRED」 1995年1月号 佐藤直樹