『コンサート・リハーサル』
2019年2月28日〜3月3日 神奈川芸術劇場大スタジオ



観劇後に寄せられたいくつかのメッセージを掲載します。

須川善行氏(編集者)

2月28日 Facebookより

時々自動「コンサート・リハーサル」、めっちゃくちゃよかった。いうまでもないが。アレとかコレとか見てこちょこちょうれしがってる場合じゃないでしょう、全舞台人(もちろん音楽や映画も含む)必見でしょう! いうまでもないが。
ちなみに、明日14時の回はワタクシがトークゲストで登壇させていただきます! よろしくね!

3月6日 Facebookより

というわけで、3月1日、時々自動『コンサート・リハーサル』のアフタートークにお呼びいただき、 トークといいながら、朝比奈尚行さんにあれこれお話を伺った。
20分ということだったので、最初の方でツメツメでいろいろ質問したのだが、 けっこう時間が伸びてしまい、後半はややグダグダに。
後から、しまった、だったらあれを聞けばよかった、これを聞けばよかったと思うも、後のまつり……。
自分では、けっこう作品に関わるあれこれや ふだん聞けないお話を聞けたかな、と思っていたのだが、 意外や、ネットでは全然反響がない!
やっぱりわかりにくい話をしてしまったかと、これまた反省しきり。
その数日後、Facebookで元メンバーの青野真悟さんが、 旗に使われていた「V」印が「エンガチョ」であると指摘しておられるのを発見、ひっくりかえる。 そうだったっけ?! (ちなみに、自分が生まれ育ったところでは「エンガチョ」をやらないので、それに対する感性がイマイチ鈍い気はする) というのは、アフタートークで、 終幕間際に、可動式の小舞台(?)を横倒しにした周りに 白線を引いた意味を尋ねたところ、 これはエンガチョだ、とお答えいただいたため。
ということは、最初から最後まで、その観点が維持されているということではありませんか!
いや、それはやはりアフタートークで、冒頭すぐのリップシンクが小津『浮草』の引用だったと聞いたときに、そこに思い至らなければいけなかったのだ!
つまり、この作品のテーマは、時々自動という集団のあり方そのものであり、それを裏返すようにして、現代社会の、というか、現代に生きるわれわれのあり方を問うているものだということではないかいな!
最初の方で、みんながパフォーマンスしている間を縫うように「V」字旗をもった和久井さんが走り回るシーンがあったけれど、あれはつまり、シーン全体がエンガチョナイズされた空間であり、人々であるということか (といっても、もちろんキタナいわけではない)。
あの何度かの「ダ・カーポ」は、『オーケストラ・リハーサル』の引用というだけでなく(もちろん)、時々自動のあり方を、その都度いくつかのアプローチを使って見せている、ということか。
時々自動のメンバーを演じている(とされている)ゲストパフォーマーの方々は、 エンガチョナイズされたメンバーたちの別の ――というより、現実の――姿であり、 また途中でリップシンクされる町の人々の声は メンバーたちの生活者としての側面を表している、のか?!
ぬううう……。
もちろん、こういうことを考えないとわかったことにならない、 といいたいわけでは全然ない。
なんでも物語に帰結させることは、細部の豊かさを見る視線を奪うことになってしまうだろう。 でも、こういうことを考える人が全然いない、というのもまたおかしな話だと思うし、 また、難しいことは考えなくていいんだ、というコンセンサスが浸透しすぎたことが、 今のこのクソのような状況を生み出す原因のひとつになってもいるのではないか、 という気も一方でするのであった。

北里義之氏(舞踊・音楽批評)

3月2日Facebookより

3月1日(金)KAAT神奈川芸術劇場[大スタジオ]にて、時々自動の『コンサート・リハーサル』(構成・演出:朝比奈尚行)を観劇。フェリーニ監督作品『オーケストラ・リハーサル』(1979年)をシチュエーションモデルに、過去の時々作品が切り子細工のように組み合わされた100分間は、まるでジェットコースターに乗って疾走しつづけているかのような凝縮された瞬間の連続で、終わってみればすべてが夢のような一瞬の出来事でした。作中で語り部が語っていく時々自動40年の足跡は、過去や現在を飛び越え、はるか未来の解散や、今は亡き今井次郎さんの記憶まで呼び起こして時間に混乱を引き起こし、公募された20人の外部劇団員も加わって物語は分散を重ね、綿密に構成された狂気とでもいったものを土俵際まで追いつめていく崩壊劇になっていました。このぎりぎり感こそ時々の身上であるとともに、思いかえせば、私にとっての演劇の原体験になっていると思います。「都市生活者がその余暇を使って過激でプロフェッショナルな創造活動をする集団」を合言葉にスタートした最初期の1980年代、公演があるたびに通っていた時々自動は、やはりたくさんの観客であふれかえる密集空間を作っていて、劇団というよりどこか集会的な雰囲気のなかに観客を置き、劇団員が自前の表現を持ち寄ったローテク・コンヴェンションのパフォーマンスは、演劇の抽象性によって私たちの生活から遊離することのない、それでいてけっしてアマチュアリズムに居直ることのない、絶妙のバランス感覚で出来事を成立させていたように記憶します。日常が非日常にスライドしていくのではなく、日常/非日常というような背中合わせの関係が創造されるといったらいいでしょうか。この演劇体験は、私の場合、ダンス批評に転じたいまでも、間違いなく川村美紀子さんの「私ダンス」を評価することなどにつながっていると思います。この日は巻上公一さんがアフタートークのゲストをされていたのですが、彼と出会ったのも1980年代のこと、『コンサート・リハーサル』は、40周年を迎える時々自動の回顧展といったものではなく、1980年代の「革命」が放置されたまままだまったく回収されていないという事実を強烈に印象づける公演でした。公演は3月3日(日)までですが、前売は完売しているようです。

ひらがなおき氏(アナグラム詩作家・時々自動元メンバー)

3月2日 朝比奈宛のメールより

今日の公演おつかれさまでした。直後の感想ですが、熱いうちにお伝えします。

まず、演出・構成はさすがでした。朝比奈さんはほとんど出演されていませんでしたが、却って作家として前面に出ていたように思います。朝比奈さんの作品は、どんな形態の表現をもちいていても、饒舌(加えてユーモラス)に言葉が飛び交います。特徴的な印象です。今回はそれをより強く感じました。例えばダンスをもちいているのに沈黙の間を感じない。空間を素舞台むき出しに広く空けているのに余白が見えない、など。どうしようもなく多弁的になる点は、無比の才能だと思いました。

次に、今回はパフォーマンスの要素が構成の仕掛けとして、どれも見事で楽しかったです。単にトラスが倒されて再び設置されただけの、一見無意味な転換も不思議と有効で驚きました。(個人的にうれしかった感想になりますが)、近年の時々自動は演者の演技・演奏・ダンスの表現力が熟練され、(朝比奈さんの言うところの)黎明期にみられた、パフォーマー個々の立ち方を演じる能力に依らない演出から様変わりしていました。それが、今回の「演者の演者」という仕掛けで、新人とベテランのような二重性により、客席から飛び出す「素人」への演出が復活していた。むろんこれは括弧付きで、ほんとは素人ではありませんが、演出上のもちい方としてです
。衣装の分け方も上手い。(ぼくの理解では)これは演出イメージを権威的に他者たる演者に投影しない非抑制的な演出システムとして、選ばれし演者ではなく「選ばれない演者」の出演であり、ぼくの好きだったパフォーマンスのアイデアでした。いまだにおもしろいし、「演者の演者」というあたらしい仕組みで、あらたな説得力を増していました。

最後に、細部についていくつか。ラストに向かって空間がひとで埋まっていき、このまま全員登場の大団円になったらやだなあと思っていたので、少女がひとり残る終わり方は上手いと思いました。ただ、作品の進行中に、トラスの上に居続けるその彼女のあり方が、効果としてよくわかりませんでした。意味がではなく効果がです。
ほかに、映像と連動したインタビューパフォーマンスは、演者の地声でアフレコみたいにすることもできたはずですが、そうせず無関係な録音だったことが、上手いと思いました。

今回は、身体表現のミクスチャーの極みには向かわず、パフォーマンス・アートをもってして構成された、ぼくにとっては時々自動らしい作品としてたのしみました。最近は演劇集団を謳っていましたが、これはやはりパフォーマンス集団でしょう。シナリオも物語性も(あるとしたら)、演劇の枠内に括るには無理があります。
意見させてもらえれば、もういくつかパフォーマンスの仕掛けを入れればさらにおもしろくなりそうです。また、メッセージのようなものがあれば、もっと主題として見えたら共感を生むと思います。『コンサート・リハーサル』が主題なのかもしれませんが。再演を希望します。

ひらがなおき