ベルリン公演
『1日←→29000日』『15分』 新聞評

東京の「時々自動」ヘベル劇場で公演

ただの舞台を力強いドラマが生起する場とするには、何枚かの色布があれば事足りることがある。小家族の絶望的な幸福をソナタで描写するには、匙でスープ皿をたたけば事足りることもある。演劇といえば往々にして、欲求不満になり、見かけばかり気にする奴らが空回りし、退屈した人々がロビーに集まって立食パーティーをすることでしかなかった。
ところが、ついにここに例えようのない奇跡が起こった。
日本から来た20人ほどの集団「時々自動」が演技を始めると、実際に分刻みで新しい奇跡が生じるのだ。それが奇跡でなくなるのは、それらが非常に精密に作り上げられたものだと判明するからである。
休憩前に上演された『15分』という題名の作品が投げかけた光は、約1時間後に上演された『1日←→29000日』間の日本人のワーキングライフを、透かして見せてくれる。あたかも『15分』で太鼓の皮に、ありふれた指標としての交通標識が[スライドで]投影されていたように。
これは、数多く用いられる呆れるほどシンプルでありながら、非常に効果的なアイディアのひとつである。これらのアイディアはどれを取っても、これまで舞台上にマルチメディアの要素を持ち込もうと骨を折った者たちすべてにとって、よいお手本となる。
残念なことに、ヘベル劇場での客演は、たったの2日間。その2日間でそのようなコンセプトが実際のところ何を意味するか学習してしまわねばならない。 「時々自動」に参加できるのは、一つの人格の中で、普通は分離されている分野を統一させることに真面目に取り組める者だけなのである。ダンサーたちは、入り組んだ合唱曲を歌い、サックス・トランペット・トロンボーンでミニマル風フリージャズを演奏し、力強さと軽やかさををサムライ風に総合して太鼓を叩き、前夜の連続テレビ小説をみごとに滑稽なパロディにして話し、美術オブジェ・彫刻・人形・仮面を、自分の肉体であるかのようにいともあたり前に取り扱う。場合によっては、危険きわまりない曲芸をその肉体に課すことも辞さない。
 しかしながら、「時々自動」はこういった職人芸自体を自己目的にしているわけではない。というのも、彼らは自分たちの総合芸術を通じて、己の社会を、すなわち日本の現代社会を非常に正確に知るようになっており、今や日本の社会を精密に告発するシーンを作り出すこともできるようになっているからである。
彼らの描くものは、何もかも機能してしまうポストファシズムの世界。テロは、仕事・祝祭・恋愛・家族・自由時間のような伝統的価値観の中にじわじわと、かつ、むらなく浸透していく。それゆえに、実際にテロリストがテロを決行する必要がまったく無くなってしまう世界である。そうとすれば「時々自動」の息をのむような完璧さの究極の目的とは、まったく非の打ち所のない自分たちの芸術自体に対し、弁証法的に告発を発することなのかもしれない。

ニコラウス・ハープリュッツェル 日刊紙ターゲスツァイトゥング紙 92年10月28日

 

ほほえみの国での生活

このようなグループには二度と出会えないのではないだろうか。
プレス用の自己紹介を読んだかぎりでは、様々なジャンルにわたって素人芸の寄せ集めをやろうとしているグループかと、いかがわしく思っていたのだが、実際の上演は今年の『アーバン・アボリジニ・フェスティバル』、すなわち『都市の原住民フェスティバル』の有終の美を飾るにふさわしい、すばらしい締めくくりだった。
「時々自動」は1985年、朝比奈尚行氏により東京で旗揚げされ、音楽・芝居・ダンス・映画・歌・人形劇・造形美術などを使った新しい「複合メディア演劇」を目指し、活動を始めた。
今回ヘベル劇場で上演されたこの新しい「演劇」は、どこを取っても全く危なげのないものだった。これは色々な才能を持つ役者たちの卓越した芸のみならず、朝比奈氏の演出の才にも負うべきところが大きい。ともすれば、ただ単に野心的なことを舞台上でやろうとしているだけではないのかという印象を与えかねない内容ながら、今回のために特別に作られた作品『1日←→29000日』は、そのような印象をいささかも与えることなく、中流日本人の一生を皮肉ながらにも真面目に洞察することに成功している。(この作品の題名は、現代の日本人の平均寿命と関係がある。また最近のアンケート調査によれば、80%以上の日本人が自分のことを中流だと考えているという)
ここで、理解できた範囲で物語を要約してみよう。主役は若いカップルだ。まずロマンティックな馴れ初めがあるが、それは突然ぎょっとするような結婚生活のシーンへと早変わりする。するとそこには、始めはちやほやされていたのに、今は小間使兼セックスの対象とされている妻と、体全体がどんどん巨大化していく夫がいる。(この夫にはスポンジが存分に使われていて、観客の期待を裏切ることがない)妻は夫に強姦されるが、その間に、買い物用カートと車椅子が合体したような物体の体内では、電気的に突然変異を起こした奇形児が、細々と(舞台上での)生命を繋いでいる。 時々自動は西洋人が日本に対して持っている偏見に餌を与えるようなまねをしたかというと、そうではない。彼らは、日本の社会だけをグロテスクに誇張して見せたわけではないのだ。観客の反応からも判るとおり、テクノロジーと家父長制とが生み出す社会の歪みを批判することは、わが国においてもやはり有効であり、理解可能なことなのだ。 そのうえ、みごとな舞台効果[けれん]も次々飛び出す。けれんに関しては、日本の演劇はずば抜けたセンスを持っているが、時々自動も、歌舞伎や屋台といった大衆演劇や大道芸を参考にして、時にはドラマチックなものを、時には曲芸的なものを織り込んで作品の基調を作り上げている。たとえばある女優は何分も前から口の中に隠し持っていた赤布を使って吐血して見せる。また数メートルの高さから、4人の役者が持つタオル大の救命布に向かってジャンプする場面もある。こういう効果によって日本の演劇は、ドラマチックに筋が展開する場面さえ、あっというまに名人芸を楽しむ場面に変えてしまうのである。

アルブレヒト・クレプファー 日刊紙ターゲスシュピーゲル92年10月28日